「神様の法」は、刑法とは違う

日々思うこと

 

こんばんは!

摂理の大学院生YUNOです☆

 

今回は、

前回に引き続き、「法」シリーズの記事を書きたいと思います!

 

今回のテーマは、

”刑法と「神様の法」の違い”

 

 

僕は、摂理で御言葉を聞くまでは、

「神様」について

天国と地獄の審判者というとても厳格なイメージを

持っていました。

 

人間が「罪」を犯したら、

神様は怒って、その人を地獄に行かせる・・・みたいな

 

 

しかし、僕は、摂理の御言葉を聞くなかで、

そのイメージが間違っていたということを知るようになりました。

 

今日は、世の中において人々に刑罰を与える法である、

『刑法』を取り上げながら、

「神様の法」の目的とその性質について、

お話しできたらと思います。

 

 

 なぜ刑法がある? 刑法の機能

 

さて、みなさん

刑法(刑罰)がなぜ存在するのか、

考えてみたことはあるでしょうか?

 

そりゃ、

ない……ですよね?(笑)

 

刑法の機能としては、

法益保護機能

自由保障機能

があると言われています。

 

法益保護機能というのは、

刑法で犯罪を定めることによって「権利・利益を守る」という機能を果たせるんだ、ということです。

「殺人罪」という犯罪を定めることで、「人の生命」の保護に繋がっています。

 

一方、自由保障機能というのは、

刑法で犯罪が定められることによって、「ここまでならやってもOKなんだ」と限界を知らせる機能のことをいいます。

逆に犯罪を定めなくては「どこまでがOKなんやろ?」と限界が分からず、

「これもアウトなんかな?」と萎縮することで、

その人の自由が制限されてしまうことになります。

 

これらの機能から

「法益保護主義」「罪刑法定主義」「責任主義」といった刑法の重要な原理原則は、

導かれるのですが……

この点は、今日の核心ではないので、割愛します^^

 

 

 なぜ罰する? 刑罰理論

 

次に、

刑法で規定された「犯罪」を犯してしまった場合、

国家から「罰せられる」のはどうしてでしょうか。

 

古来のハンムラビ法典では「目には目を、歯に歯を」

と言いましたね。

 

では、「悪」を行った者に報いるため、それに尽きるのでしょうか?

 

 

この議論は、「刑罰の正当化根拠(刑罰理論)」というトピックです。

この刑罰の正当化根拠が何であるかについて、

伝統的には、大きく二つの見解が対立してきました。

 

応報理論過去に目を向けて「犯罪が行われたから刑罰を科す」とする見解

目的理論将来に目を向けて「犯罪が行われないように刑罰を科す」とする見解

 

上記のハンムラビ法典は、

「刑罰は犯罪に対する当然の報いであって他の目的をもたない」

というような考え方に立つものですので、

極端な応報理論(『絶対的応報理論』)の立場なのでしょう。

 

他方、目的理論の中でも、

一般人による将来の犯罪を予防する(一般予防論)

犯人自身が再び犯罪を行わないようにする(特別予防論)

というように、「誰の」犯罪を防止するかで見解が分かれています。

 

 

いろいろ紹介してきましたが、

現在の通説は、

「刑罰は犯罪に対する応報だ」(応報理論)を基本に据えながらも

犯罪予防目的(目的理論)も併せて考慮しようとする、

『相対的応報理論』となっています。

 

言っちゃえば、

どれか一つだけ ってことはないよね……という

ある種、当たり前の結論です(笑)

 

「神様の法」と対比する上でのポイントは、

基本的には、応報理論(犯罪は刑罰で報いる考え)に立脚しているという点になります。

 

 

 「神様の法」 法の目的

 

他方、「神様の法」(=御言葉)はどういう性質のものでしょうか。

 

「神様の法」とは、神様が御言葉で

「これはするな」「これはしなさい」と言ったルールです。

 

キリスト教に馴染みのない日本人でも良く知っている例としては、

「十戒」があります。

(アメリカでは、公共施設や行政庁舎(議事堂等)に、十戒碑

設置されていたりするほど有名です。)

 

十戒の内容は、

殺すな・盗むな・姦淫するな

といったもので、現在の刑法(殺人罪、窃盗罪、強姦罪)と共通する内容を持っています。

 

 

ただ、

刑法と「神様の法」は、

本質的には大きく異なります!

 

摂理の鄭明析(チョン・ミョンソク)牧師は、

「神様は、まず人間に<法>で「条件」を与えて、その御言葉を守れば<祝福>を与える

と教えてくださいました。

 

 

そしてまた、次のようにおっしゃいました。

 

<法>は死の道、裁きの道に行けなくし、命の道、祝福の道に行かせるものです。

<法>神様の願いです。救い人を通して新しい時代に宣布した神様の願いです。

 

<神様の法>も<世の中の人法>も「自由を縛るもの」ではなく、実際は「保護し、守ってくれるもの」です。

人々がしきりに危ない所に行って死ぬから、<法の網(あみ)>を張り巡らせておいて、<安全網>も張り巡らせておくのです。

ーー摂理 鄭明析牧師の御言葉

 

 

 

刑法は、法益保護機能(権利利益を守る)を有している、と前述しました。

「神様の法」も、法益保護機能を有している点では、

刑法と共通しているといえますね。

 

もっとも、

刑法は、他人の権利利益や国家・社会の利益を保護する法であるのに対し、

「神様の法」は、なんと、自分自身”の権利利益を保護する法なのです!

 

神様は、「あなた」を愛するから、

その人自身の利益を保護し、栄えるように

「法」を定めるのですね。

 

 

「神様の法」

なんだか守ってみたくなりませんか?(笑)

 

 

 「神様の法」 神の刑罰

 

「神様の法」にも「刑罰」はあります。

 

「神様の法」を破った場合に

“地獄に行く” ”この世で害を被る”

というのは、

神様が、人間の罪に報いるため(罰するため)なのでしょうか…。

 

実はそうではありません。

神様は、罪を犯した人間が憎いから

罰を与えるわけではないのです。

 

憎いから、ではなく、

神様が公義・公平な存在だから、

人間が(良くも悪くも)行なった通りに

祝福または損害を受けるようにしている

のです。

 

神様の法(御言葉)を厳格に守ってきた鄭明析牧師も、

「神様は『義』と『不義』を行ないどおりに報いてくださる。

1日だけ経験してみなさい。自分が行なったとおりに受けるのか、受けないのか見なさい。」

とおっしゃいながら、そのくらい神様が公義だということを

教えてくださったこともあります。

 

 

神様は、公義・公正に人間に接するから、

人間が「神様の法」を破れば、その分、損を被り、

自分自身が害を受けるのですね。

 

刑法と対比してみますと、

「神様の法」が刑法と異なるのは、

神様は、「応報」のために罰するわけではない、ということですね(応報理論)。

 

また、神様は、

罪を犯した本人や、他人に対する抑止力

として刑罰(損害)を受けるようになさるわけでもありません(目的理論)。

 

 

神様は、人間を愛して創造した存在であり、

その人が地獄に行くその最後の瞬間まで愛して救おうとなさいます。

 

そのような神様の「法」の立法趣旨は、

「人間一人ひとりに向けた愛」に他なりません。

 

 

 最後に

 

ここまで話してきたことを、まとめると、

・「神様の法」は、「法」を守るその人自身が栄えるように定めたものだ。

・神様は、公義な存在だから、「行なった通りに100%受ける」ようになさっている。

・神様は、人間を最後まで愛して救おうとなさる。

ということになります。

 

私は、このことを、摂理で教わるようになって、

神様に対する誤解が解け、

神様の愛をもっと純粋に受け止められるようになりました。

 

 

<この時代に神様がくださった新婦の法>を握って、サタンも、世の中も、不法も、自分も、無知も治めなさい。

 

「神様の法」を守ることによって得る祝福、

受けていきたいと思います~!

 

 

投稿者プロフィール

yuno
大学院生。弁護士を目指して勉強中です。
最近のマイブームは、アロマ。大阪在住。