科学の主体はどこにあるか

日々思うこと


今週の主日礼拝でのこと。
今週牧師先生は
神様が作ってくださったもの全てを貴重に思って使わなければいけない
貴重に思う人が自分も周囲から貴重に接してもらえるようになる
と教えてくださいました。


その中で
物質ばかり好きで、愛して生きる人があまりにも多い。物質よりも人に気が狂ったように(愛して)生きていかなければいけない
と話されました。
私たちも日々生きていられるのは体と心があってこそです。自分の体と心がなければどんなにいい車も家も意味がなくなってしまいます。
また私たちは社会の中で生きていますから、どんなに優秀な能力を持っていても人と人との繋がり無くして成功を治めることはできませんし、寂しい人生になってしまうでしょう(有名な”サピエンス全史”の冒頭にも人と人の結びつき無くしてこのような文明の発展と成功はなかったとあります)。
だから、モノを愛するよりももっと人を大切に思ってあげるべきだ、と話されたのだと僕は思っています。


この言葉を聞いて私は思いました。
科学をやる人たちも物質ばかりを愛してはいないだろうか
もちろん私自身研究で携わる皆さんとても人格的に接してくださって人に恵まれているなと思う日々ですが、
どちらかというとより一般的な“科学の捉え方・観”として上記のようなことを思ったのです。


ここからは私個人の科学観でしかないかもしれませんが、しばしお付き合いください…
私は物理学を研究していく中でこの世界を支配している法則を少しずつ学んでいますが、とても絶妙なその姿は
「誰かが意図して造った」
と思うのがむしろ自然なくらい凝っています。
福山雅治 主演の有名なドラマ「ガリレオ」の湯川学の名言の1つに「現象には必ず理由がある」というのがありますが、
私は”この物理法則が存在する”という結果にも”物理法則を産み出す存在”という原因があるべきだと考えています。
世間ではそういう存在をよくSomething Greatとか呼びますが、言い換えればそういう存在を私たち人類はこれまで”神”と呼んできました。


よく物理をやっていると”どうして自然はこの形を選んだのか”という言葉を耳にしたり目にしたりします。
しかしこの表現は間違いでないにしてもより”物質主体”の表現だと言えます。
私に言わせれば”どうして神様はこの形を物理法則として選ばれたか”という風に表現すべきだと思うのです。
このように現代の科学はどちらかというと物質を主体にして考えている傾向にあります。
もちろん、科学という学問自体この宇宙の物質について語る学問ですから、話の主役が物質になること自体はなんらおかしいとは思いません。
ただ、それをお造りになった神様がいらっしゃるという視点を科学者が持つかどうかがネックです。


NewtonやEinsteinをはじめとする昔の科学者はより科学と宗教・神様の”距離感”が近かったのではないかと感じています(個人の感覚かもですが)。
例えば科学をする理由が宗教にあったり、科学を研究する中で神様の存在を感じたり、科学と宗教が密接だったのでは、と。
ですが最近少しずつ科学者と宗教・神様の”距離感”が遠ざかっている傾向があるのかなーと思ったりしています(これも個人の感覚ですが)。
実際どうなのか明言はできませんが、それでも科学に向き合う人の姿勢として特に研究の対象は変わらなくても、
“その物質をお造りになった主人である神様”を主体に意識した科学をするというのはより自然な姿勢なのかな、と思うわけです。
そういうことを考えながらも今日も終わり。また明日も研究頑張ろ…!

投稿者プロフィール

素粒子兄弟
素粒子兄弟
素粒子物理学を研究しています。
物理学を「面白い学問」で終わらせないこと、そこから「人生のなかで核心となる精神」を学んで生きることが僕の哲学です。

素粒子兄弟

素粒子物理学を研究しています。 物理学を「面白い学問」で終わらせないこと、そこから「人生のなかで核心となる精神」を学んで生きることが僕の哲学です。

プロフィール