鄭明析牧師の「Servant Leadership」
前回は、サーバント・リーダーシップ(Servant Leadership)について書きました。
聖書を紐解いてみると、イエス・キリストは、”究極のサーバントリーダー”だったことが分かりましたね^^
今回は、摂理のリーダーである鄭明析(チョン・ミョンソク)先生の「サーバント・リーダーシップ」についてお話ししていこうと思います。
私は、摂理に来て、もう少しで4年が経ちます。
最近では、教会の大学生メンバーをまとめるようなポジションにもなりました。
そのように摂理で過ごす中でつくづく思うのは、
摂理の指導者たちの人格がすごい…!!
ということです。
みなさんは、「牧師」というとどんな人物をイメージしますか?
おじいちゃん?黒いローブを来て教会に籠もってる人?
そんな感じの、“権威的”なイメージではないですか??
しかし、摂理の牧師たちは、どんな相手に対しても、とても謙遜です。
信仰的な話だけでなく、将来の進路・家族関係・友人関係など、多岐に分かって私たちの相談に乗ってくれます。
その際も、決して権威的な態度ではなく、むしろ、私たちの心と置かれている状況を最大限理解しようと努力しながら、よく話を聞いてくださいます。
私たちが無意識のうちに間違った振る舞いをしてしまっている時もありますが、
世間一般の「上司」のように、”指摘”したりはしません。
私たちの長所を大きく見て、私たちが自ら変わろうとするのを「愛で」待ってくれます。
私たちの足りない点・短所は、私たち自ら成長しようとするタイミングに、「もう一歩」進むためのアドバイスとして話してくれます。
「主の愛で待ってあげよう。」「主の愛で祈ってあげよう。」
摂理の指導者は、私たち一般信徒の前でいつも謙虚であり、私たちの将来性を見て接してくださいます。
では、どうして摂理の指導者はこのように人格的なのでしょうか…?
その理由を聞くと、摂理の指導者たちは、みな口を合わせてこのように言います。
「先生(鄭明析先生)が、そのようにしてくださったから。」
摂理がいつも楽しく、希望に満ちているのは、
鄭明析先生が、私たちにそのような愛で接してくださっているからに他ならないのです。
鄭明析先生は、今では、何百万人もの人たちが、その「御言葉」を認めて従うような大きな指導者です。
それにも関わらず、私たち一人ひとりに「仕えるように」接しながら導くことができるのはどうしてなのでしょうか?
先生は、1945年に、韓国の忠清南道(チュンチョンナムド) 錦山郡(クムサングン) 珍山面(チンサンミョン) 石幕里(ソンマクリ)という場所で生まれました。
故郷の名前が、長いですね(笑)
つまり、場所の特定がそのくらい必要な程の「田舎」なのです。
これは、先生の故郷が現在のように開発される前の写真。赤い屋根の家が、先生の生家があった場所であり、また生まれ育った場所です。
上の写真では、赤い屋根の家が写っていますが、実はこれは建て替えた後のものであり、
もともと先生が小さい頃にあった家は、藁ぶき屋根で、いつ倒れてもおかしくないようなボロボロの家だったそうです。
1945年という年は、第二次世界大戦終戦の年であり、食料・物質ともに不足しているような状況でした。
特に、先生の生まれたソンマンリは、電気も車も通っていないようなド田舎でしたから、より一層過酷な生活環境でした。
先生も、イエス・キリストと同様、生きること自体が大変な環境に生まれ、
貧しさ・飢え・孤独など、様々な人生の問題を経験して育ってこられました。
先生は、このような環境で過ごしながら、
「自分がどのように生きるべきか?なぜ生きるのか?」について、深く考え、悩み、切実に答えを探し求めたそうです。
だからこそ、私たちが直面する悩みも、まるで自分のことのように分かって接してくださいます。
鄭明析先生も、幼い時からそうだった訳ではないと、過去に話してくださったことがあります。
先生は、9歳の頃から、お兄さんに連れられて近所の教会に通い始めたそうなのですが、
そこで、聖書を学び、イエス・キリストに出会ってから、普段の考えと行ないがはっきりと変わるようになったそうです。
つまり、現在の先生のルーツは、「キリスト」に学んだことにあるのです。
キリストに学び、そしてその言葉を実践してきたからこそ、誰よりもキリストの愛を持つことができます。
だからこそ、相手に「仕えるように」接することができるのです。
最近、先生のこういうエピソードを聞きました。
先生が、ある弟子と手紙でやり取りする中、その人に対して、神様の構想を伝えた上で、ある仕事を任せるようになったそうです。
しかし、その弟子は、なかなかその構想どおりにやらなかったそうです。
そのため、先生は再び、ちゃんとその仕事をやるように手紙を送ったのですが、その弟子は、一向に、先生が指示した通りに行わなかったそうです。
そこで先生は、
「変だな?続けてずっと直すまいと決心したかのように、どうしてちゃんとやらないのだろう?<神様の構想と目的どおりに作ったもの>を見たいのに……」
と思って、ずっと待ちました。
先生は、神様に対して、神様の構想どおりに実現して差し上げたかったから、とても気がかりだったのです。
このような状況の時、普通のリーダーなら、その弟子(部下)に対してどのように接するでしょうか?
大事なプロジェクトを任せたのに、間違った方向で仕事を進め、しかも何も連絡してこない部下、、、どうですか??
おそらく、めちゃくちゃ怒られますよね。
もしくは、「こいつはダメだ。使えない。」と、そっと見放されてしまうことでしょう。
しかし、鄭明析先生は、このように考えたそうです。
「分かってみたら事情があるのだろう。無限に理解する。簡単なことではないから。解いたら答えが出てくる」
そして私たちに対して、このようにおっしゃいました、
先生もこのようにしているから、みんなこのようにすることを願います。
何か誤解するようなことが起こったら「そんなはずがない」と思って、解かなければなりません。
解いたら「答え」が出てきます。あれこれと考えてみたら「答え」が出てきます。
どうですか?
最高のリーダーだと思いませんか?!
何百万人をも束ねるリーダーの口から、「無限に理解する」という言葉が出てくるのは、本当に驚くべきことです。
この発言一つからも、鄭明析先生が最高の「サーバント・リーダー」であるが分かると思います!
(これは、故郷の月明洞を開発する際の写真。このように鄭明析先生は、いつも現場の最前線にいて、私たちと共にしてくださっています。)
このような鄭明析先生に出会えたことは、私の人生において、本当に大きな人生の転機となりました。
摂理に来る前、
私は、中学・高校6年の間クラスの代表を務め、
また部活でも中高ともに部長として、みんなを引っ張っていく存在でした。
だからこそ、私は、自分自身のリーダーシップについて、ある種の自信を持っていました。
しかし、鄭明析先生のリーダーシップを目の当たりにして、
私のこれまでのリーダー観が完全に覆されるようになりました。
鄭明析先生が、一人ひとりの問題を解いてあげながら、その人の個性が真に輝くように助ける姿を見ながら、
自分がいかに独善的なリーダーだったのか、また、どれだけ多くの人の個性を潰してしまっていたのか、
明確に、自分の誤りに気付くようになりました。
今回、「サーバント・リーダーシップ」について記事を書いたのも、実はこのような経緯から来ているのです。
あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。 (マタイによる福音書20章26-28節)
投稿者プロフィール
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大学院生。弁護士を目指して勉強中です。
最近のマイブームは、アロマ。大阪在住。
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