「神様の愛っていいな。」~前編~

日々思うこと

「神様の愛っていいな。」

これは、僕が初めて御言葉を聞いた時の率直な感想です。

 

今日のテーマは、「神様の愛」

 

なぜ僕が摂理に来るようになったのか、そしてなぜ今もなお、自らの意思で摂理にいるのか、

それは、まさに「神様の愛」がここにあるのを確信しているからです。

 

今日はそんな僕がどのように「神様の愛」に出会うようになったのか、少々赤裸々にお話ししたいと思います。

 

 

 摂理に来る前の自分

 

摂理に来る前までは、僕はどんな人間だったのか。

一般的な日本人と同じく、「無宗教」な人でした。

同級生の友達にもクリスチャンの人はいましたが、キリスト教に関心を持つことはありませんでした。

むしろ「お前、聖書ちゃんと読んでるのか??」とか言って、茶化していたりしました。

他にも、思春期特有の下ネタをふっかけて、そのクリスチャンの友達を困らせていたりしました(本当にごめんなさい汗)

今思うと、完全に、神様に敵対する立場の行いをしていましたね…

 

そんな僕がどうして、摂理に来たのか。

それは、「真の愛」について、答えを探し求めていたからです。

 

 

 「真の愛」とは…?

 

僕が、「真の愛」(理想の愛)が本当にあるのかどうか、考え始めたのは中学2年生の頃でした。

そう、男子たちが思春期に突入し、ああいう話が飛び交い始めるその時期です。

そういう時期に、僕は、ちょっと背伸びをしたくて、そんなことを考え始めたのでした。

 

しかし、「真の愛」について本格的に考え始めたのは、高校生になって彼女ができた頃からでした。

相手は、中学時代に2年間、一緒にクラスの評議員をした子でした。

その子と付き合えることになった時には、やはり純粋にうれしかったものです。

 

「リア充」な高校生活のスタートを切った僕でしたが、

その幸せは長くは続きませんでした

 

ある日、彼女から呼び出され、「距離を取ろう(つまり、いったん別れよう)」と切り出されたのです。

理由は、お互いの思いの強さの違いでした。

簡単に言えば、僕の思いは「愛」で、相手の思いは「恋」、だったようです。

 

あの時、相手から「そこまで愛することはできない」と言われた際にはとてもショックだったのを覚えています。

これまで好きだと言っていたのは一体なんだったのか、と…

 

そういう失恋経験を経て、僕は、<相手を本気で愛すること>が怖くなってしまいました。

自分は本当に好きなんだけど、でもそれを相手に表現したら「重い」って思われちゃうかな…

とか、そういう感情に近いです!

一度、失恋された経験がある方なら、共感してもらえるのではないでしょうか?

 

世の中の男女の愛は、

相手を愛するがゆえに、相手に受け入れられなかった場合の「恐ろしさ」がある。

そういう風に思えました。

 

その後、別の彼女と付き合う期間もありました。

相手は、とても人格的で、愛情のある人でしたが、交際していた2年近くの間、自分の愛を思い切り伝えたり表現することはやはりできませんでした。

 

相手と一定の距離を上手く取りながら付き合っていたのは、「長続きする知恵」だったかもしれませんでしたが、

正直、僕には苦しかったです。

 

相手を愛することの喜びを感じながらも、

一方で、もしその自分の思いすべて表現した場合、相手は受け入れてくれるのかな…という不安になる心、

その両方を抱えながら交際する中で、

「完全の愛ってあるのかな…?」と深く考えるようになったのでした。

・・・・・・・・・

 

さて、気付けば、ずいぶんと赤裸々に語ってしまいましたね!

しかしながら、そのようにしたのも、「摂理に来る人」が実際どんな人なのかを正確にみなさんに伝えたいがためです。

今日は、僕が「真の愛」について悩み始めた経緯について、主に書くようになりましたが、

明日こそは、本論、「神様の愛」に出会うようになったシーンを中心に書きたいと思います☆

 

 

 

 

 

 

 

投稿者プロフィール

yuno
大学院生。弁護士を目指して勉強中です。
最近のマイブームは、アロマ。大阪在住。