帰省

日々思うこと

先日、広島に帰省してきました!

 

当日は、新大阪駅6:59発の新幹線のチケットをとっていましたが、

朝起きたら、6:27。

寝坊スタートでした(笑)

 

しかし、結果的に、鈍行の「こだま」で、ゆったり勉強しながら、移動することができて結果オーライ^^

 

 

広島は、僕の生まれ育った場所ではあるのですが、

家族は、僕が大学1年生になった年に別の県に引っ越したので、今では「帰省先」ではないんです。

 

父方のおばあちゃんと、おじさんがいるので、挨拶にいくために立ち寄ることがあるくらいです。

 

懐かしのホームに降り立って、

懐かしの風景を眺めましたが、

 

「帰ってきた」という思いはなぜか湧きませんでした。

別の場所、ある一つの町に到着したくらいにしか思えませんでした。

 

街中を歩いてみると、いろんな記憶が思い出されました。

友達と笑い合った記憶。

つらい思いをしながらも耐えた記憶。

 

楽しかったことを思い出しながら、

当時はそれなりに満足して生きていたけれども、

摂理に導かれるようになった今に比べれば、それまで「心から幸せだと思える経験」はしてこなかったんだな、と感じられました。

 

<経緯>は「愛」だ。

――鄭明析牧師の箴言

 

 

人々は、過去の良き日を「美しい思い出」「美しき日々」と言ったりしますよね。

少年時代は日が暮れるまで野球をして遊んだな、とか

毎日、あいつらとバカをやりながら、この道を帰ったな、とか

思い出せば、あの頃に戻りたくなるような、かけがえのない思い出がどのような人にもあると思います。

 

しかし、その記憶は、美しければ美しいほど、「あの時には戻れない」って虚しさが同時に付き纏うものです。

人は成長すれば、心も環境も変わり、もうあの頃のような「仲間」ではなくなってしまうことが多いし、

過去に体験した刺激・感動は、もう二度と同じ新鮮さをもったまま体験することはできません。

 

神様がいない、人間同士の思い出は、どれだけ美しくても、結局は「虚しい」思い出だと思うのです。

 

しかし、神様と人間との間の思い出は異なります。

神様は、私たちと、過去の経緯を分かち合いながら、もっと愛を深めることを願われます。

私たち摂理人が、神様との経緯を振り返るときには、虚しさはなく、

過去に受けた神様の大きな愛が思い返され、同時に今もそのように自分を愛してくださっている神様の愛を強く感じます。

 

永遠に変わらず人間を愛する神様と、人間との思い出は、

現在と断絶した過去の記憶ではありません。

神様との愛は「永遠」だから、どんな経緯も、愛のストーリーの貴重なワンシーンです。

だから、神様との経緯を思い出せば、希望が湧いてくるしかありません。

 

僕も、広島で過ごした日々は、神様との直接的な日々はないので、今ではもう過ぎ去った記憶の一部となってしまっていますが、

大阪で神様と呼び求め、共に過ごした記憶は、とても鮮明に残っているものです。

 

今回、広島に帰省してみて、

人間だけの思い出は「虚しい」けれど、

神様との思い出は、永遠に色あせない、真に美しいものなんだなということを感じました。

 

天との一つ一つの経緯を大事にしながら、感謝の忘れずに人生を歩んでいきたいと思います。

 

 

投稿者プロフィール

yuno
大学院生。弁護士を目指して勉強中です。
最近のマイブームは、アロマ。大阪在住。