神様の愛を、『事実認定』してみる

日々思うこと

おはようございます!

テスト期間が終わり、解放感いっぱいのYUNOです!^o^

 

最近、友人に聖書を教える機会があったのですが、

伝えた後によくよく感想を聞いてみると、

 

どうやら、

「”神様の愛”がうまく伝わっていない!」

ということが分かりました。

 

その友人は男性なのですが、

 

男性は「愛」と言われても、

ピンと来ないことが多いです。

 

男性って、

女性みたいに、ロマンチックかどうかとか雰囲気がどうとか、そういうのをあまり重視しない傾向にありませんか?

より実利的な視点といいますか。

自分自身を見ても、そんな気がします。

 

とりわけ、「神様」という(その人にとって)未知の存在が、

自分を「愛している」という状態がいったいどういうことなのか、

具体的にイメージし、実感するのは難しいかもしれません。

 

そこで、今回は、「神様の愛を、事実認定してみる」という取り組みを試験的にしてみようと思います☆

 

 

 

 裁判実務的な意味での「事実認定」

 

「事実認定」という言葉は、裁判において使われる用語です。

 

今回の趣旨に沿った例を挙げますと、

たとえば、

・被告は、Aさんが無権利者であることを《知っていた》。

・被告人は、Bさんを《殺害する故意(殺意)》を有していた。

 

上の《 》内の部分が事実認定の対象です。

民事裁判上で、被告が「知っていた(悪意)」であったかどうかは、その人が保護に値するべきかどうかを決める重要な指標になり、

刑事裁判上で、被告人が「故意」を有していたかどうかは、犯罪の成立に関わる重要な要件です。

 

裁判で、被告・被告人が「その内心的な意思はなかった」と主張して否認すれば、

その内心的意思が本当になかったのか、それともあったのかどうか、争うことになります。

 

しかし、他人の内心(特に過去の内心)を、正しく突き止めるのって、

とても難しくないですか??

 

人の心って、人の目に見えるものではないですから、

裁判官も、原告・被告の主張だけ聞いていたら、「一体どっちなんや…?^^;;」と、判断しようがないのです。

 

そこで、「事実認定」が出てきます。

その内心があったこと(なかったこと)を推認させるような事実を集めてきて、

それらを突き合せながら整合的に考えてみた時に、

本当にそのような内心を有していたと疑われる可能性が高いな、という心証を

裁判官が経験則に基づいて抱いた場合に

《知っていた・故意を有していた》と裁判上、”認定”することができます。

 

結局、裁判官は、その内心があったことを裏付けるような事実を集めて、それらを中心に判断するんですね。

 

 

以上が、裁判実務上の「事実認定」の簡単な説明でした。

 

今回は、これを、《神様の愛》の認定に応用できないか、という取り組みなわけです!!

 

 

 

 《神様の愛》を事実認定

 

神様が働きかけ、共にしてくださる場面は、多種多様です。

そのため、その事実をすべて列挙するのは、骨が折れそうです(笑)

 

なので、今回は、聖書の記述に基づいて、《神様が人間を愛している》ことを推認させる事実をピックアップしていきたいと思います。

 

 

①人間を自分と同じ形象に造ったこと

 

創世記/ 01章 27節
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

 

神様は、宇宙・地球上のあらゆるものを構想し、造られました。

四つ足で歩く動物、ひれを持っていて海中を泳ぐ動物など、様々な生き物がいる中、

人間だけは、神様と同じような形に造られた――

 

親が、自分の子供が自分に似ていると無性に喜ぶように、

神様も人間を特別な存在として、愛するからこそ、ご自身に似せて造られました!

 

 

 

②人間を自由にさせたこと

 

創世記/ 02章 16-17節
主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
創世記/ 02章 19節
そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。

夫婦が不倫をしてしまうとその関係が破綻してしまうように、神様と人間との関係が切れないために守るべき法はあります。

しかし、それ以外については、人間の自由意思に任せました。

もし、神様が人間を思い通りに行動するように、人間をロボットのように作ったのであれば、

人間が神様の前で「罪」を犯すこともなかったでしょう。

 

しかし、神様は人間をそのようには造らず、自由意思を与えました(現に、僕たちは自由に考え・行動しています)

 

なぜか?

愛は、片方からの一方通行でなせないものです。

愛は、お互いが、自分の意思で相手を選択し、大切にしてこそ成立します。

神様は、人間との愛をなしたいからこそ、自由意思を与えました。

 

 

 

③救い人を地上に送ったこと

 

ヨハネによる福音書/ 03章 16節
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

 

人間との愛し合う、といっても

人神様は肉体を持っていません。

だから、肉体のレベルだけで考えるなら、人間が神様と通じることは不可能です。

相手が何を考え、何を願っているのか分からないのに、相手を愛するようになるでしょうか?

 

神様が、人間に対してどのような思いで時間を過ごしてきたのか、また実際に何を行ってきたのか、

人間に対してどのように生きることを神様は願っているのか、

そのことを正確に伝えるために、救い人(キリスト・メシア)を立てました。

 

救い人は、神様の考え・心を受け、神様の「この地上の肉体」として生きます。

そうして、神様の考え・神様の働きが何なのかを証します。

 

救い人を通して、正確に神様について知ることができるのです。

 

人間を愛するからこそ、救い人を送って正確に教え、働きかけてくださる神様です。

 

 

今日は、3つのことを取り上げてました。

聖書には、まだまだ「愛さないとこうはしないよなぁ」というような記述がたくさん眠っています。

 

あなたも、聖書を読みながら《神様の愛》を「事実認定」してみてください^^♪

 

 

投稿者プロフィール

yuno
大学院生。弁護士を目指して勉強中です。
最近のマイブームは、アロマ。大阪在住。