私の「盲点の窓」 相手に合わせて接することが神様の愛

こんにちは!摂理の大学生Koyaです!

自分はよく相手に合わせないで自分の話ばかりをすると言われます。

自分では相手に合わせているつもりで話していても実際は独りよがりな話になっていることが多いようです。

ジョハリの窓でいう自分は気づいていないが他人は知っている自己「盲点の窓」といったところでしょうか。

相手に合わせるのも度が過ぎたら逆に軸の無い人とも思われるかもしれませんが、譲れない所以外ならどんどん相手に合わせていくのが得策でしょう。

ただ、合わせるのではなくて相手を愛する思いで合わせるのが大前提ですが。。。

聖書を呼んでいて、パウロ先生も相手に合わせる実践をされていました。

わたしは、すべての人を得るために、自ら進んで全ての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。
律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。
律法の無い人にはわたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが律法の無い人のようになった。律法の無い人を得るためである。
弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。
全ての人に対しては全ての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。
【コリント人への第一の手紙9章19-22】

これがパウロが主の精神を受けて、実践された愛なのだなと感じました。

自分のプライド、自尊心、メンツなど、全てを捨てて相手に寄り添って降りてくださる、これが神様の愛です。

この聖句を読んで、鄭明析先生がヨーロッパでサッカー大会を開かれた時のことを思い出されました。

私はまだ摂理に導かれていないのですが、映像で何回か見たことがあってそこに写っていた先生があまりにも衝撃的だったのを覚えています。

サッカー大会の合間に先生がヨーロッパの国々の人たちにコーラを注いで配っている映像を見て驚きました。

先生がコーラを飲むのは控えなさいと教えてくださっていたので最初は目を疑いましたが、2000年前にパウロ先生が民のところまで降りていって接したようなことをされているのだなとすぐに悟りました。

先生はコーラを注いであげていましたが、ご自身は全然口にしないので、ヨーロッパの文化であるコーラを愛する人たちに与えてくださっていました。

まさに先生は人々の所へ降りていって愛で接してくださる方なのだなと感じるようになりました。

私も先生のように相手に寄り添って接していこうと挑戦中です。