「太陽よ、止まれ」は正しいのか?
天動説と地動説。
今は後者を信じている人が多いようですが、そもそもこのような議論が起こった発端は聖書にあります。
まず、16世紀を迎えるまで人類は地球の周りを太陽が周回する「天動説」を信じていました。
その一つの根拠としてあるのが旧約聖書 ヨシュア記にある以下のような聖句です。
ヨシュア記10章12〜13
ー主がアモリびとをイスラエルの人々にわたされた日に、ヨシュアはイスラエルの人々の前で主にむかって言った、
「日よ、ギベオンの上にとどまれ、月よ、アヤロンの谷にやすらえ」。
民がその敵を撃ち破るまで、日はとどまり、月は動かなかった。
これはヤシャルの書にしるされているではないか。日が天の中空にとどまって、急いで没しなかったこと、おおよそ1日であった。
この聖句を見てみると、太陽が地球の周りを回っていることを前提にしてヨシュアは「太陽が止まるように」とお祈りをしたことになります。
しかし、科学の研究が発達していくとそれとは逆で地球が太陽の周りを回っているという地動説がどうやら正しいことがわかってきました。
では聖書の主張と科学の主張は矛盾しているのでしょうか?
ただし、ここでガリレオが宗教裁判にかけられた云々ということや、当時の科学と宗教の対立には様々な要因があったようなので、この聖句によって宗教人と科学者の対立が・・・という歴史的な要素を含む話をするのはやめておきましょう。
あくまでもここでは太陽が地球の周りを回っているという(聖書の)主張と地球が太陽の周りを回っているという(科学の)主張はどちらが正しいのか、という点を考えていきます。
さて、両者の主張は逆で相容れないもののように見えますが、実はそうではありません。
物理では座標系というものをとってその系の中で物事を考えます。そして座標系の取り方によって物理は変わらない(変わってはいけない)ことを原理としています。
そのため地球と太陽の運動を考えるとき、太陽の上に座標系の原点をおくと確かに地球は太陽の周りを公転しているように見えます。
しかし座標系を地球の上に座標系をおく(普段の私たちの視点)と、太陽は動いているように見えます。これは日常の感覚でもわかると思います。
このように地球と太陽という2つの物理的なオブジェクトは座標系の取り方によってその「運動の見え方」が変わります。
しかしこの座標系の取り換えによって物理法則(ここではNewtonの運動方程式や万有引力の法則)が破れるということはなく、そもそも運動の見え方というのは相対的に変わって当然なのです。
例えば2台の車が並走しているとしましょう。
2台が全く同じスピードで走っているとすると一方の車内の人からもう片方の車内の様子をみるとその人は止まっているように見えるでしょう。
しかし地上で止まっている人から見たら2人とも車に乗って走っているように見えます。
このように運動の仕方は座標系をどこにとるかによって全く変わってしまうものだということを知らなければいけません。
そうなるとそもそも「地球の周りを太陽が回っている」「太陽が地球の周りを回っている」という2つの主張のどちらが正しいのか、という疑問は意味がないということが分かります。
前者は地上に座標系をおいた場合、後者は太陽に座標系をおいた場合の相対的な運動の見え方であって両者での見え方が一致する必要はどこにもないのです。
これで聖書に書いてあることと科学の言っていることが整合するようになりました。
あとは地上にいたヨシュアがどうして「太陽が止まって欲しい」という祈りをしたのかということに着目をすれば良いのです。
文字通りヨシュアの座標系で太陽が止まるということを解釈すると地球の自転が止まるということになります。
皆さんもご存知の通り地球は1700km/hのものすごい速さで自転しているのでこれが止まる(0km/hになる)と大きな加速度が生じることになります。
Newtonの運動方程式によると力は力が作用するオブジェクト(=人間等)の質量×加速度ですから、地球の自転が止まろうとするとそれにより地表の人間や建物には自転と逆方向に大きな慣性力が働くことになり、地表はそれによって壊滅状態になってしまいます。
しかし歴史としてそのようなことが起こったことは一度もありません。
地球はヨシュアの時から今に至るまで変わることなく自転と公転を続けています。
そして何を隠そうこのような自然法則を作ったのは他でもない、神様です。
神様は法則の神様、秩序の神様だと牧師先生(鄭明析牧師)は教えています。
なのでヨシュアが仮に「太陽止まれ!=自転よ、止まれ!」と祈っても神様は「じゃあそうしよう」と自身が作った完璧な法則を破ってその祈りを叶えることはしません。
なので、ヨシュアがそのような祈りをした“真意”がわからないといけないのです。
冒頭であげた聖句はヨシュアの率いる軍隊が奴隷で囚われていたエジプトから先祖が住んでいたカナンという土地に戻るためにそこに定住していた31の部族との戦いのシーンを描いたものです。
ヨシュアの軍隊は順調に勝ち進んで行きましたが、その噂を聞いた5人の王たち(=アモリびと)は協力して大きな軍隊を作りヨシュアの前に立ちはだかります。
ヨシュアたちは知らない土地で自軍よりも大きな軍隊を相手に戦わなければいけなくなりました。
知らない土地での戦いは圧倒的にアモリびとたちに有利であり、当時電気などもなかったのでなんとかして日が暮れる前に戦いを済ませたかったわけです。
そう。「日が暮れる前に」です。
ここでヨシュアが「太陽止まれ」と祈った真意は太陽が止まって欲しかったのではなく、「太陽が止まって、時間が止まったと思えるくらいに戦いを短く終わらせられるように」ということなのです。
簡単に言えば時短をしたかった、ということです。
それに答えて神様は空から大石のような雹を降らせ、それで多くの敵軍が倒れるようになりました。
結果ヨシュア軍が戦って倒さなければいけない数は激減、戦いは早く終わりまだ太陽も沈んでいなかった、ということなのです。
このような解釈をすれば時間も、太陽も、自転も止まらないまま聖書の内容を科学と整合する形で理解できます。
今回はヨシュア記の内容で科学的につっかかる部分をこのように説明してみました。
この部分について分かりやすくアニメで解説している動画もあるので興味があれば見てみてください。
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素粒子物理学を研究しています。
物理学を「面白い学問」で終わらせないこと、そこから「人生のなかで核心となる精神」を学んで生きることが僕の哲学です。
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