愛の”定義” ー愛に生きるとはー
以前本ブログ内で科学の理論がなんでも”定義”をしてこそそこから議論を展開ができるように、自分の人生の上でも”愛の定義”をしてこそ自分自身愛について実感して生きることができるといった内容の記事を書いた。(まだ読んでない方はこちらも見てみてください:https://wp.me/p8MHGv-3y5)
最近この愛の定義について僕自身もはっきりさせて生活できていなかったこともあり、もう一度考え直して見た時に思ったことをここに書いてみようと思う。つまり、愛とは何か。
最近生活する中で僕は愛とは何かと言うことについて深く考える機会があった。それは何かと言うことをまずは簡単に話すと、僕は本業は物理だが、趣味としてたま〜にフランス料理を作ったりする。正直僕は普段はあまり自分で料理を作らず、なにか人に振る舞う場があったら作ろう、と言う気になれるタイプ(?)で、最近もお世話になった方が引っ越されると言うので食事会を設け、せっかくなら豪勢に!と言うことで張り切ってローストビーフを作った。自分の持てる力を全て出して他にも料理を用意したが、残念なことに急遽その方がその食事会に来れなくなってしまった。結局自分で食べるしかなくなってしまったのだがこれがおいしけれども本当に味気なかった。僕がフランス料理を作ることが好きな理由はまず「芸術のような作品を作る感覚に近いから」ということもあるが「他の人が食べて喜んでくれるのを見て甲斐を感じるから」ということもまた大きいだろう。だから他の人に食べてもらってこそ嬉しいのに自分が食べても嬉しくないのだ。
自分だけが勝手に盛り上がって作ったような気分になり、何かこう情けなさを感じて神様に「私がこのようにしたことは間違っていたことでしょうか?どのように今の状況を捉えればいいでしょうか」と尋ねた。しばらくは気分が晴れなかったがこのような考えになった。
愛というのは相手がそれを受けようが受けまいが関係なく自分がやってあげたくて、いてもたってもいられなくて喜んでしてあげることだ
ということだ。これは前に僕がブログで書いた愛の定義の記事(冒頭でリンクを貼ったもの)で書いた言葉で言えば「貰う愛より与える愛」ってやつだ。「自分は今何をしてるんだろう」「自分がやってることを見て欲しい」と感じるのは人間に取って(心理学的にも)かなり根本的な欲求や思いだと思うが、その答えがここにあるのだ。世の中を見てみても「愛するよりも愛されたい」と言って対人の方法を模索したりする人もいるけれども、僕は「相手が最悪それを受けてくれなくても関係なく自らそうしてあげたくてやってあげることが愛をその人に表現したことになり、それで終わりなのだ」と考える。だからこのような精神で生きる人の前では誰もかなわないのだとわかった。誰が止めようとしても関係なく自らの愛を示していく…
僕にいつも神様と御言葉を教えてくれる牧師先生の生活をみてみるともちろんたくさんの話をしてくれるけれども、それ以上に集まってくる人に対してしてあげる”行ない”の方が多い。人間誰しも行動よりも言葉数の方が多くなっちゃうものだが先生はとにかく行ないでもってみんなに神様の愛を表現することが得意なのだ。それを受けて「私には先生が近く接してくれない」とかあれこれいって先生について悪くいう人もいるけれども先生はだからといってご自身がすべきことをやめたことはなかった。つまり僕がさっき述べたことは先生の生き方そのものなのだ。先生の生き方がただの愛の押し売りなのか、そうでなく真実な愛の表現者なのか。自分の目で確かめた時にわかるだろう。
世の中で出回っている歌を聞いてみるといろんなアーティストが「愛」という言葉を使っている。「愛がどこにあるのか」とか「愛とは何か」とかいろいろ歌うけれどもそこで語られている愛とは一体なんなのか?どれくらい真実なのか?僕は問いたくなる。「愛の定義」がわからなくなっているこの世の中にとって必要なのは自分の持つ愛を定義することだと言えるだろう。
本ブログは神様を信じている学生の物理ブログです。ぜひ他の記事も読んでみてください〜
投稿者プロフィール
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素粒子物理学を研究しています。
物理学を「面白い学問」で終わらせないこと、そこから「人生のなかで核心となる精神」を学んで生きることが僕の哲学です。
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