愛の<定義> ー ”理論”に学ぶ愛され術 ー
昨日、先生は
「神様と聖霊様と御子を愛することが喜びだ」
と教えてくださった。
つまり人間にとって神様を愛して生きることが最高の喜びだということ。
僕はちょうど先週から
「1日のなかですべきことをきちんと把握し、レースをするようにてきぱきとやろう。ただやってはいけない。命を尽くすようにやろう。」
と思って頑張ってみた(–)و
命を尽くしてっていうのは言葉でいうのは簡単だけど実際そのようにするのは大変。
それだけでも毎日めまぐるしいなかでも万事を治めて仕事をされる先生の凄さは感じられる。
だが、このように生活した翌日明け方に祈ってみたところ調子が良くなかった。
前日たくさんすべきことをやったから神様との経緯の1つくらいあるだろうと思ったのだが、思ったより祈りに心が入らない…
なぜなのかを考えている時に答えとなったのが冒頭に挙げた先生の言葉だ。
「私は神様を愛して生きることが喜びになっていたのか?」
こういったことを考えているとふと考えが浮かんだ。
「数学も物理も概念の ”定義” をうまくしてこそそこから理論が生まれる。
そのように人間はいつも自分の中で<愛の定義>がされているかが重要だ。」
理論というのは必ず定義の上に成り立つものである。例えばNewton力学。
これを語るためには ”エネルギー” とはなにか。”仕事” とはなにか。”速度”とはなにか。こういった概念の定義をもとに自然を説明する重要な法則が見出される。
人生も同じだ。人間にとって必要なものが<愛>であるということは多くの人が認める事実だといっていいだろう。
しかしそれはただ異性的な、エロス的な愛ではない。アガペー的な愛、わかりやすく言えば性別も人種も超えた愛だ。
私は生活の中でこの愛が欠けていた。
いつも、なにをしても自分の中で「私の愛とはなにか?」と自問自答しながら愛の定義を忘れないようにしてその愛で生きてこそ神様との愛が生まれ、経緯が生まれるのだ。
ただ頑張っているだけだと疲れてしまう。だから周囲の人に見てもらい、評価してもらえると嬉しい。これが人の心理だが、その関心言い換えれば<愛>は受けるのを待つのではなく、自分から見い出すべきものということだ。受ける愛より与える愛。これを忘れるとつらくなってしまう。だから自分の中に刻むこと、<定義>が大切だ。
ただ自分のやるべきことをてきぱきやるだけじゃなく
神様の愛をいつも自分の中に刻んで生きる生、今週も挑戦だ。
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素粒子物理学を研究しています。
物理学を「面白い学問」で終わらせないこと、そこから「人生のなかで核心となる精神」を学んで生きることが僕の哲学です。
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